あよめゆそ日記

日常を深く考察して、価値ある豊かなものに・・・

Mr.Children「GIFT for you」みて改めて思うミスチルと自分の人生・・・

30周年記念。ライブは見れなかったけど、見ました。

 

Mr.Children「GIFT for you」

 

開始5分で号泣しちゃいました。。。

1曲目。イントロだけで泣ける。。。

思えば、音楽聞くようになったきっかけはミスチルで、他の色々なアーティストの音楽も聞いてきたし、今も聞いているけど、何かの時にはミスチルに戻ってきて、やっぱいいなって思う。

この映画にも描かれている通り、自分の人生の様々な場面で、いつもミスチルの曲が流れてて・・・

ちょっと変な感じだけど、自分の人生とミスチルってことで、映画の余韻を味わいながら、その曲を聞きながら、自分の人生を振り返ってみたいと思います!!!

てか、書き出してしまうと、すごい文量になっちゃいますね・・・

 

「イノセントワールド」

実は小学校の頃、初めて買ったCDはイノセントワールドでした!!

小五だった頃、周りの友達がなんか音楽聴き始めてて、はじめは音楽とはよくわからず、なんとなくかっこよさそーってことで買ったんですけど、完全に魅せられて、毎日、家で全力で歌ってた。近所迷惑だったに違いない・・・。

まあ、ミスチルについてはほとんど曲がリリースされるたびに歌えるように練習していたので、うるさい家だと近所には思われていたと思います。。。

親も近所から怒られていたかもだけど、何にも言われた記憶がない。。。

私は、ずーーーっと歌うことが好きで、今でも一人でカラオケとか行きます。。。

全ての始まりはこの曲からでした。

桜井さんの次にこの歌を歌い込んでいる、という自負あります😊

 

「my life」

すごく前向きな歌詞で、ポップな歌!!!

ライブでも歌われますが、本当に好き!!!

「いいことばっかあるわけないよ」って、でも逆にいうと、「悪いことばっかでもないよ」って励ましてくれてた。

 

「【es】〜 theme of es」

この曲は当時中学生になったばかりの私には、さっぱり意味のわからない曲でした。

心理学の言葉らしいですね。ちょっとググると、

 

曲のタイトル「es」はイドとも呼ばれ、簡単に言うと「無意識」という概念です。

本能のままに行動すること

 

ということらしい。当時、ドキュメンタリー映画も放映してて、ミスチルだからとにかくよくわからないけど、友達誘って見に行った。

声変わりする前で、Aメロの低い音程がでずに、必死に練習したの覚えてます。

まあ、声変わりしたらすぐに出るようになったけど。。。

あまりライブで歌っている印象もないですが。。。

 

「幸せのカテゴリー」

アルバム「BOLERO」より。

ちょっとマイナーな曲かもしれませんが、イントロとメロディーだけで虜になってしまった曲。

中学の軟式テニスの部活帰りに、よく歌ってました。

まだ、女子と付き合ったこともないのに、恋に恋していて、別れてしまう妄想をしながら、歌っていたことを思い出します・・・

変態ですね・・・

 

「終わりなき旅」

ミスチルが活動休止をした時期がありました。

復活の時の曲がこの曲だったんです。

活動停止以降、ミスチルロスで廃人のような私が近所のTSUTAYAで偶然、ミスチル復活の表紙の雑誌を発見!!

あの時の喜びは今でも忘れません。

当時の雑誌も実家にあります!!!

 

「空っ風の帰り道」

大学時代、彼女に振られた時に聞いていた曲。

TVでもなんでも「彼女に振られる」というキーワードを聞くと自然とこの歌が流れてきます。。。

振られた後、泣いて友達の家でお酒を飲み明かした思い出は一生消えません。

 

sign

これも大学時代。当時、「オレンジデイズ」というドラマがとても好きだったのですが、まさにこのドラマのシチュエーションの通り、もうすぐ、社会に出る大学4年生の時でした。

友達とオレンジノート作ったり・・・笑

社会人と学生の狭間で不安に感じていたことをすごく思い出します。。。

 

「彩り」

アルバム「Home」より。

社会人なりたての頃、何をやってもうまくいかず、何をやっても怒られていた時期。

俺、なにやってんだろ。

生きている意味あんのかな?って自分で自分で追い込んじゃっていた時に、よく聞いてました。

 

「あんまり覚えてないや」

こちらもアルバム「Home」より。

これもシングル曲ではないですが、個人的にはミスチルの中でも超名曲だなって思います。

すごい歌詞が沁みる・・・

社会人になって、結婚して、子どもができて家族を持って。。。

あんまり自分の親のこととか生活の中で考えることなかった時に、この曲聞いたら、気づいたら、泣いてました。。。

 

ロードムービー

アルバムQより。

これもどちらかというとマイナーな曲かもしれませんが、すごく爽快な曲。

イントロから歌詞からメロティから編曲から全てが爽快。

バイクの免許持ってないけど、バイクで爽快に走ってる感じがすごく好き!!!

 

「足音 〜be strong〜」

チャレンジするとき、いつも背中を推してくれる曲。。

 

もう怖がらないで

怯まないで 失敗なんかしたっていい

拒まないで 歪めないで

巻き起こってる

全てのことを真っ直ぐに受け止めたい

 

大好きな歌詞

 

「抱きしめたい」

珠玉のバラード

自分の結婚式の時にサプライズでピアノ弾き語りをしようとして、本番頭真っ白になり、ほぼアカペラになっちゃった、苦くも甘い思い出の歌。。。

 

 

長々と書いてたら、こんな時間になっちゃいました。。。

まだ、思い出の1割くらいしか書けてないけど。。。

でも、明日仕事だからこの辺にしときます。。。

 

 

とにかくミスチル大好き!!!

これからも人生一緒に!!!

 

 

ありがとうございました😊

『SASUKE』のおじさん達は可愛い???

皆さんは、「SASUKE」というTV番組はご存知でしょうか?

昨年末に40回を迎えた長寿番組です。

我が家はどちらかと言うと、スポーツ系には疎いので、番組は知っているし、

「筋肉すげー!!」

「よくあんなのに掴まれるなー!!」

「献身的にご主人を支える奥さんすげーなー!!」

などと、たまにみて感心する程度だったのですが、昨年末は、我が家の女子3人(奥様、長女/小五、次女/小三、以下チーム女子)が、

「今年は絶対SASUKE見るぞ!!!」

「ビデオちゃんと録画できている?」

と大盛り上がり!!!

 

あれっ?珍しいな。どうしたのか聞いてみると、

 

Snow Manの「ひーくん」こと岩本照さんが出るから、絶対みる!!!とのこと!!!

 

我が家では、今はSnow Man、なにわ男子など、ジャニーズなどのアイドルにチーム女子がハマっているのです。

特に長女は「推しがいる生活は最高だーーー!!!」などと毎日楽しそう😊

日々を楽しめるとは何よりです。

 

 

そして、放送日当日、私は仕事で見れなかったので「どうだった?」とチーム女子に聞いてみると、

 

「いやー、SASUKEに出ていたおじさんたちが最高に可愛かったよーーー!!!」

「本当に可愛かったねーーー!!!」

「可愛くて本当に応援したくなったねーーー!!!」

 

とのこと。

 

んっ??可愛い???

 

SASUKEに出ていたおじさんたちって、筋肉ムキムキで、ストイックに、何なら休みの日に家族との時間よりもトレーニングしてて、家にSASUKEのセット作ったりして、みたいな、どっちかというと、「かっこいい!!」とか「すごい!!」というイメージ。

 

「えっ、なんでかっこよかったの???」という問いに対して、

 

「だって、みんなで一生懸命お互いを応援している姿をみてると本当に可愛いんだもん!!!」

「自分がダメでも、他の仲間を本気で応援して、しかもダメだったとき、一緒に泣いている。本当に可愛い!!!」

(みたいな答えが、エンドレスに続く)

 

「ひーくんはどうだったの?」と聞くと、

 

「ひーくんもかっこよかったけど、おじさんたちが可愛かったーーー!!!」

「おじさんたち、サイコーーー!!!」

 

 

んーー、「可愛い」ってどんなだっけ?

 

私の可愛いのイメージは、

「くまのぬいぐるみ」「リラックマ」「アーニャ(SPY&FAMILY)」「橋本環奈ちゃん」などなど、まー、愛らしい感じでしたが、

 

えっ??「SASUKEのおじさん達」???

私のイメージとはかすりもしない。

いや、てか、むしろ真逆やん!!!

 

令和になって、可愛いの意味が変わったのか?!と思い、調べてみた!!!

 

Wikipediaによると、

可愛い(かわいい)は、日本語形容詞で、いとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられる。また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。派生語にはやや意味を強めた「可愛らしい」、動詞の「可愛がる」がある。

 

「愛すべき存在」

(「かわいそう」はチーム女子の会話の文脈からして違う・・・)

 

こう言われてみると、可愛いの定義には少し合致しそうな感じ。。。

こういう可愛いもあるのか???

なんかちょっと不思議な気持ち。。。

同じ言葉でもイメージするものが違うことに改めて気づきました。。。

あまり腑に落ちなかったですけど。。。

 

一方で、自分も40歳になり、おじさんも可愛いの対象になるのだと思うと、ちょっと勇気づけられた気もします。。。

 

チーム女子から可愛いと言ってもらえるおじさんを目指すため、とりあえず、筋トレ始めよう・・・

 

 

ありがとうございました😄

繊細さんな娘にちょっと感動

うちの娘は、いわゆる「繊細さん」。

 

お肌は弱いし、音に敏感。。。

食事も見た目だけで食べれないと瞬時に判断してしまうし、以前食べれたものでも日によって今日は固いからとか見た目が違うから、ということで、食べれないことも。。。

気分良さそうと思ったら、次の瞬間、元気なかったり。「どうしたの?」と声掛けたら、あと3日寝たら学校だから気分が嫌になった、という返答。「えっ!!今日、金曜で明日から休みだよ!?」(金曜の夜、たまにこういう症状が出ます。。。)

娘には、奥さんともその対応にいつも苦慮しております。。。

 

そんな娘と先日2人でランチする機会があり、娘リクエストの某チキン屋さんに入りました。

テンション高めの娘と一緒に、席を先に確保するために、どこに座ろうかと考えていたところ、お店全体が割と空いていたので、適当に席を選んで、「ここにしようか?」と娘に声をかけたところ、

 

「えっ!?」の一言

 

その瞬間、娘のご機嫌レベルが急降下!!

 

「なんでやねん!!」という気持ちを抑えつつ、「どうした??」と聞いてみると、

 

「何でもない」の一言。

 

「何でもないことあるかーい!!」という気持ちを抱えつつ「窓際が良かった??どっか違うところに座りたい?好きなところに座っていいよ」と言うと、

 

「いや、別にここで良い。。。」の一言。

 

「全然良くないやないかーい!!」という気持ちを我慢しながら、「ごめん。なんか嫌なことしちゃったかな?」と言うと、

 

「もういいから。。。」の一言。

 

「むー、難問やな。。。」という気持ちを思いつつ、周りを見渡して、ちょっと考えてみたら、私が適当に選んだ席は4人席で、他に2人席が結構空いてることに気づきました。

もしかしてと思い、娘に聞いてみると、

 

「うん。そう」の一言。

 

私としては、お店全体は空いてるし、荷物も多かったので4人席の方が落ち着いてご飯食べれるかな、ということで席を選んだのですが、そんな選択をした私に驚愕したようでした。。。

この後、4人くらいの家族がきたら、座れないのはまずいのではないか?という娘の考え。

確かに、我が家は5人家族で、割と店で席を確保するのに、苦労します。

そんな我が家のような別の家族を慮った娘の気持ち。

「あー、確かにそうだね。よく気づいたね」といいながら、今度は2人席へ。娘の気分は急上昇!!

 

娘の繊細力に圧倒され、ちょっと感動してしまいました。

という私も割と繊細な部類なのですが、大人になるにつれ、繊細と上手く付き合えるようになってきていて、そんな娘をとても心配しているのですが、この日ばかりはすごい「繊細力」だな、と感心しちゃいました。

 

その日のチキンが本当に美味しかったのは言うまでもありません。

 

 

ありがとうございました😊

 

 

 

 

『お金』から『幸せ』を考える・・・

先日、こんな本を読みました。
今まで読んだ経済の本と比べものにならないくらい、シンプルかつ易しくお金の本質が書かれています。
それくらい衝撃でしたし、自分の考えを深めていただいた本でした。
この本に書かれていることを整理しながら、自分なりに『お金』を考えてみました。。。
 

●そもそもお金は流れているだけで増やせない。大事なのは「効用」。

この本では、経済を考えるために大事なことは「お金」ではなく、その裏にいる「人」に注目することだと言っています。
お金そのものにはなんの価値もない。
お金にできることは、労働とモノ・サービスの分配だけ。
働くことで、モノ・サービスを作り出し、それにより誰かの生活を豊かにしている。
大事なのは「効用」(*)である。
(*)経済学でいう、モノ・サービスを消費することで得られる幸せのこと
 
こういう考え方をすると、
GDP(国内において1年間でモノの生産・サービス提供のために流れたお金の総量)が大きくても、それで人々が幸せになるとは限らないし、コロナウイルスが蔓延し出した時に起きたマスクの転売などの行為は、他の人の「効用」を奪うものだよね、という見方ができます。
 

●「消費」、「投資」の意味

「消費」は、モノ・サービスがもたらす“効用”と“価格”(払うお金)を比べて行われる。
「投資」は、事業がもたらす“収益”(将来生み出される効用)と“費用”(事業を始めるのに必要な労働力)を比べて行われる。
ヘタな投資は、労働力のムダ使いであり罪。
消費や投資により流れているお金が、労働の分配を決めていて、その配分により未来が作られている。
 
「お金を使う」ということは「誰かにモノ・サービスを提供してもらう」ということです。
だから、間違ったことにお金の使う(「消費」or「投資」)と、そのための労働力が無駄になってしまいます。
 

●いかにして、少ない労働力でいかに効用を最大化できるか。

効用に見合わない労働や資源が投入されるのを放っておくと、社会はどんどん疲弊していく。
経済効果とは、どれだけお金が移動したか?という意味だが、大事なので、どれだけお金が移動したか?(労働力が費やされたか?)ではなく、どれだけ幸せがもたらされたか?
 
少し話しはずれますが、「お金を使って時間を買う」という表現があります。
労働力の付け替えみたいなことですね。
ただ、その労働により生み出されるモノ・サービスに大した価値がなければ(効用が生まれなければ)それは無駄。
逆に、価値があれば、生産効率を上げる効果的な行為になります。
 
 

●原価は突き詰めれば、「地球資源」と「人」だけ。

この本には、こんな話しも出てきます。
これも私にとってはとても大事な気づきでした。
確かに、世の中の組織における損益計算書に記載される費用項目は、突き詰めると、「地球資源」と「人」(人件費)に行きつきます。
見方を変えると、「地球資源」と「人」がなければ経済活動はできない、ということ。
経済活動とは、「お金」というツールを使って社会全体で「効用」を高め合う活動ということなので、「地球資源」と「人」がいかに大事か、ということがわかりますね。
 

●国や社会の問題について

本の中では、お金と社会問題との関係についても、触れています。
例えば、「年金問題」。
問題の本質は、高齢者が増えて働く人が減ること、一人当たりの労働の負担が増えることである。
つまり、お金を高齢者に配ったところで、労働力が減って、生産能力が落ちれば、必要なものが手に入らない。
お金で解決することではない。
 
確かに、高齢者全員に老後資金2000万円を配ったとしても、それに対応できる労働力がないので、結局、労働力の単価が上がって、モノ・サービスの値段が上がる(つまり、インフレ)、結局、生活の苦しさからは脱却できない、みたいな状態になりそうですよね。
つまり、問題はお金では解決しない、ということ。
 
また、「国の借金」についても触れています。
日本政府が借りたお金(日銀で刷ったお金)で外国の人に働いてもらうと、それは後から働いて返す必要がある。
逆に国内の人に働いてもらうだけあれば、お金が移動するだけなので問題ない。
(お金が国財布にあるか、企業・個人の財布にあるか、という違いだけ。。。)
財政的に破綻した国が共通するのは、外国に労働の借りを作りすぎたこと
日本は過去からの累積貿易黒字を蓄積がある。
つまり、外国に労働の貸しを作っている状態なので、つぶれない。
 
日本の財政状態が悪いのに、潰れない理由がよくわかります。
 
 
これまでの話しから、
 

私たちは、自然を大切にしないといけない。

そして、ともに働くということで助け合って生きている。

 

という、道徳のような話しが、経済の視点から見えてきます。
 

お金の裏には必ず人がいて、必ずその人が問題を解決している。

決して、お金が解決しているわけではない。

お金のむこうに人がいる

 
 

●少子高齢社会の日本でこれから生きていくか?

この本を読み終えた頃には、私の中では、もはや本の主題は「お金」ではなく、「幸せ」になっていました。
これからの「幸せ」を生きていくには必要なを考えてみました(特に、日本の社会で)。


まず、


「自分の幸せのために必要なものを理解すること」

 

社会が豊かになったことの証だとも思いますが、もはや、消費することが幸せにつながる時代ではなくなっています。

社会的な常識とか慣習とかいう尺度と、自分の幸せの尺度って本来違うものだと思います(例えば、社会的には会社の中で出世することが幸せのために必要なことだと思われていても実際はそうでもなかったりすことの方が多いですよね)。

 
その上で、
 
「自分の幸せを実現できる消費・投資をすること」


一人一人が、自分の幸せの状態を明確にイメージできると、無駄な労働で社会が疲弊するのを防げます。

自分が幸せにならない消費をしてしまうと、労働力のムダが生まれてしまうからです。

特に日本の場合、労働力が極端に少なくなる、質の高い労働力が多くない(テクノロジーなどの重要分野での人材不足)状況を考えると、一人一人が自分が幸せな状態を明確に理解して、そこに素直に生きようとする心構えがとても重要に思えます。

また

「労働そのものが幸せにつながる仕事をすること」

 

1日のうち、それなりの時間が労働に割かれます。

それであれば、労働することそのものが幸せにつながることを追求する方が効率が良いですよね。

現実的には難しくとも、少しでもそういう時間を増やす工夫が必要だと思います。

 

 

また、社会全体としての課題もあります。少ない労働力で効用を最大化するためには、上記のような個人レベルでの話しに加え、国・地球レベルでの視点で考えるべき課題もあると思います。

まず

「労働力の流動性を上げること」

 

社会に住む一人一人の効用を最大化するためには、労働力の質をあげ、量を確保し、柔軟に分配する必要があります。

ここで弊害になるのが「既得権益」。

古い制度を変える必要があるのに、権力をもった偉い人が、既得権益を守ろうとするために、変えられない。

だから、価値のない・廃れたモノ・サービスのために労働力が使われる。

個人的には、教育、社会福祉、みたいな分野は特にそうなってしまっていると感じます。
副業の容認、働き方改革(もう少し踏み込むと正社員の廃止など)など、不要な労働力が固定化しないように工夫が社会的に求められます。

また、
「未来への投資(子ども、生産性向上など)を行うこと。投資先を誤らないこと」

本書でも、取り上げられていますが、社会が子供を育てる意識が希薄化しています。

子どもは未来の社会を作ります。

シンプルに、みんなで子どもたちを育てよう、という社会意識の醸成、子育て世代が報われる社会的な政策が必要です。

最後に、
「自然を大事にする。」

当たり前なことですが、改めて感じます。

日本で言うと、エネルギー資源は少ないかもしれないが、水、森などの自然資源が豊富です。地域ごとに独自の文化もあります。それらを活かした観光業などは今後、日本を支える産業になっていくと思います。もっと、力を入れても良い、と思うのですが。。。


●最後に・・・

近頃、SDGsとかダイバーシティとかインクルージョンなどという言葉を聞きますが、その言葉の意味は上記で述べたようなことを、一言でキャッチーな言葉で表現しているだけな気がします。

「お金」の本質を理解することで、社会で人が幸せに共存することの意味、課題などが見えてきました。
 
皆さんは、どんな時に幸せを感じますか?
世の中の情報に目を向けがちですが、自分の心と向き合うことが幸せの第一歩なのではないか、そう強く思います。
 
 
ありがとうございました😊

熊谷晋一郎さん「リハビリの夜」から、生きること、社会のことを考えてみた・・・

以前に、熊谷晋一郎さんの書かれた記事をみて、『自立』とは何か?ということをブログに書きました。
 
その後、熊谷晋一郎さんのことが気になり、著書「リハビリの夜」を読んでみたので、今回は感じたことを書いてみようと思います。
 
驚愕しました。
感覚的なことをここまで丁寧に言語化できるなんて、本当にすごい!!
ご自身の経験から、生きることとか発達とはどういうことで、その過程において生まれる官能を見事に表現している。
熊谷自身の体験を、読者自身で体感できてしまう本だと思います。
 
正直、それに対してうまくブログに書くことは難しい、という気もしましたが、個人的に感じた事を言語化しておきたいという気持ちがまさったので、綴りたいと思います。
 
まず、私がこの本を読んで、大事だな、って感じたこと

①「生きること」とは「自分」と「自分以外の世界」との関係をつなげたり、ほどけたり、という繰り返しである。

②「自分」と「自分以外の世界」との関係が、つながるだけでなく、ほどけることも、生きることの大事な一部分である。
③「自分」と「自分以外の世界」との関係がほどけている状態は悪いことではない(未発達とか不適合とかではない)。
④生きるためには、「自分」はもちろん「自分以外の世界」との融和的な関係が必要であること
 
これだけ読んでも、全然、意味わかりませんね。。。
 
頑張って、説明していきたいと思います。
本よりだいぶ稚拙で平易な表現になりますが、ご容赦くださいませ。。。
 

「自分」と「自分以外の世界」との関係

まず、
「生きること」とは「自分」と「自分以外の世界」との関係をつなげたり、ほどけたり、という繰り返しである(上記①)。
 
平たくいうと、
自分の身体の中の意識とか筋肉とか神経とかそれらの要素の関係性がつながったり、ほどけたり。また、自分以外の周囲(他人、モノ、社会、会社などの組織など)との関係性がつながったり、ほどけたり、その繰り返す工程そのものが生きること、なのだということ
 
なんかわかるようなわからないような。。。
 
本では、
協応構造がほどけたり、つながったりすることの反復が生きることの現実ではないか。
 
と表現しています。
 
これを理解するには、「協応構造」とは何か?を知る必要があります。
 
 

「協応構造」とは何か?

「協応構造」には、「身体内協応構造」、「身体外協応構造」の2つあります。
「身体内協応構造」とは、身体の内部の意識・筋肉などの連携のことです。
例えば、「コップの水を飲む」という行為において、コップを飲もうという意識のもと、それが全身に伝わり、関節・筋肉を使って、コップを食器棚から取り出し、水道の蛇口をひねって、コップに水をいれ、水を飲む、という行為につながります。
呼吸するなどの無意識的な行為もあるでしょう。
つまり、身体の内部の要素が連携して、動きを生んでいる訳です。
この連携している状態を「身体内協応構造がつながる」といい、麻痺があって手でコップを掴む動作を実現できないなどという状態を「身体内協応構造がつながっていない」もしくは「身体内協応構造がほどける」といいます。
しかし、動きは、身体の内部だけで完結するものではありません。
コップを取るためには、コップの形状・材質・重さなども重要になります。
そうでなければ、コップで水を飲むどころか、コップを掴むこともできないからです。
コップだけでなく、家の床の形状とか、食器棚、冷蔵庫など、色々なモノとの関わりが必要になります。
これらの身体の外側との連携も必要で、そのことを「身体外協応構造」と呼びます。
つまり、動きは「身体内協応構造」、「身体外協応構造」がうまく連携することで初めて意味のあるものになります。
協応構造とは、このような考え方のことです。
 
また、協応構造を考える上で「社会的規範」という要素が重要になります。
例えば、「トイレで排泄をする」というのは、社会的規範の一つです。
「トイレで排泄をする」という規範とつながるには、身体的は動きはもちろん、トイレもそれに連動して使いやすい場所(設備・広さなど)であることが必要になります。
この規範を前提にして、動作を実現するために、身体内外の協応構造をうまくつないでいく必要があるのです。
うまくいかないと、社会的規範から離脱してしまうという身体外協応構造がほどけてしまった状態になります。
 
そして、協応構造という視点で、人間と人間以外の動植物の違いについても、触れています。
人間は周囲との協応構造が不安定。
人は、生まれてすぐに自分で立ったり、歩いたりできないが、自分と周囲の世界と少しずつ適応させていくことで、協応関係を適合させる。
 
一方、人間以外の動植物は、協応構造が強固である。
例えば、野に咲く花は根を張る場所は選べないし、天候によって動くこともできない。
野生の動物も同じ。危険な動物が周囲にいるかもしれない。
固定された環境の中で生きるしかない。
 
でも、不安定というのは、見方を変えれば自由度が高い、ということであり、人間の強みではないか、と仰っています。
 
なるほど。
確かに、人間のそういう不安定な性質(=自由度の高さ)が人間がここまで進化してきた理由なのかもしれません。
 

「つながる」、「ほどける」の考察

先ほど例に出した、生きることの中の日常行為の一つである排泄について、もう少し深く考えてみます。
 
排泄の大まかな流れは、以下の通りです。
①トイレにいきたい感覚が生まれる
便意を感じながらトイレに行く
③トイレのドアを開ける
④ズボン・下着を脱ぐ
⑤便座に腰をかける
⑥排泄
 
脳性まひである熊谷さんの場合、これらのステップをクリアするのが大変だろうというのは想像するに難くありません。
熊谷さん自身の腸の動きや運動を受け止めてくれるモノや人との特殊な身体外協応構造のつながりが必要になるからです。
トイレに移動するまでの導線の確保、トイレ内に手すりは必須、その設置場所・形状なども大事、車椅子が入れる広さも必要になります。場合によっては介助する人も必要でしょう。
それらをアパートのオーナーや業者と相談したり、友人などの力を借りて実現していく、一つ一つを受け入れ、考え、行動していきます。
これらをクリアしていくために、身体内外の協応構造のつながりを構築していくことそのものが生きることだと仰ってます。
 
そして、大事なのは、失敗して失禁してしまったということもまた生きる現実だと仰っていること。
失禁してしまったということは、上記の排泄の過程のどこかがうまくいかなかったということです。(例えば、②のトイレまでの移動に時間がかかった、③でトイレのドアを開けることに手間取った等)
失禁した結果、便意(身体内協応構造のほどけのサイン)はなくなります。
それは腸の状態が正常に戻ったことを意味します(=身体内協応構造のつながり)。
一方、失禁は「けがれた身体」になってしまった、という社会的規範から脱線してしまったという敗北感、疎外感も感じさせる(=身体外協応構造のほどけ)。
同時に、脱力した身体は地面にしっかり支えられ、そこに照らされる太陽の光の温かさを感じられる(=新しい身体外協応構造のつながり)。
さらに、失禁によって失った人・モノ・社会的規範からの離脱を、介護してくれる人との関係性の中で身体をきれいにしてもらうことで新しい関係が生まれる(=新しい身体外協応構造のつながり)
 
つまり、ほどけることで、新しいつながりが生まれる。
それが、生きることなのだ、と。
 
そう考えると、少し心が軽くなりませんか?
私は普通に働いて、家族と暮らしてますけど、会社からの求められることができなかったり、親としてやるべきみたいなことができなかったり(社会的規範からの脱線)、なんとなく、そういうことが重なると自分の存在意義みたいなところを疑ってしまったり、ネガティブな思考に陥ってしまいがち。
でも、うまくいかないこと(身体外協応構造がほどけること)が次にうまくいく(再び身体外協応構造がつながること)ために必要なことで、それが生きることである、ということ。
「うまくいかない状態が生きる現実の一部である」と受け入れられると、本当に楽になると思います(上記②)。
当然のようだけど、そう受け止めることって意外と難しい。
個人的には教育が大きく影響していると思うけど、うまくいかない状態を否定的に捉えることが当然のようにあると思う。
もしくは、そう思い込んでいる人たちが多いように思う。
 
ここで一つ注意したいのは、うまくいかない状態(=協応構造がうまくつながっていない状態)は、未発達とか不適合ではない、 NGではない、ということ(上記③)。
例えば、人間が年老いておいていくと、当然、身体機能は低下します
具体例を挙げると、加齢により足の筋力が落ち、動きが鈍くなります。
そうすると、これまで登れていたアパートの階段が登れなくなることがある。
こういう状況になると、筋力が落ちた足と向き合い、周囲の環境も見直し、考察する(身体内外と向き合う)。
その結果、筋力を上げて階段を登れるようにする、手すりなどの道具を使って上りやすくする(身体外構造と再びつながる)、もしくは、階段がない住まいに引っ越すなどの解決策を得る。
こうして身体内外の関係をつながる。こうした繰り返しが生きることである。
しかし、未発達とか不適合ではない。ダメなことではない。
これを、未発達としてしまうと、「加齢による機能低下=社会不適合」となってしまう。
別の例でいうと、いわゆる障害を持つ方における、いわゆる健常者にとって当たり前の社会に対して、生活しづらい場面は多々ありますが、それは、障害を持つ方が身体外協応構造をつなぎにくい、ということであり、社会不適合ということではない、ということです。
 

「外の世界」との関係性のあり方

そして『人間が生きることは、協応構造がほどけること、つながることの反復である。』であるならば、人間が生きるには、他人を含む周囲との融和な関係が必要になります(上記④)
自分の身体はもちろん、周囲との関係とつながる必要があるが、それは決して自分だけではできません。
当然、そうですよね。コンビニでおにぎり買うことも、コンビニに向かって、選んで、購入する過程において、自分一人では当然成り立ちません。
コンビニまでの道路を舗装してくれる人もいるし、コンビニの店員さんも、おにぎりを作ってくれる人も、原料の米を栽培してくれる人などもいる。
人だけでなく、道路そのものとのつながれなければコンビニまで歩けないし、コンビニの内装・外装、おにぎりのパッケージなどとか様々なモノとのつながることで成り立つ行為になります。
そして、それらとの関係は、決して主従関係ではなく、融和的な関係が必要です。
例えば、障害を持つ方に対して、その障害のことを理解せずに介助することはできません。
それを理解すること、逆に、介助される側にも理解してほしいことがある。
それをお互い共有する、特には実現が難しいこともあるなど許容することも含めた関係が必要になります。
身体内外のつながり、ほどける対象に対してそういう関係を築いていくことが必要になります。(本では「ほどきつつ拾い合う関係」と呼んでいます。)
 
特に、対象が社会的規範(社会のルール、考え方、あり方など)の場合、それをどう捉えるかという視点が大事になります。
個人が勝手に思い込んでしまう社会的規範もある。
また、立場とか状況などにより、お互いに違う規範を持っていることもある。
だから、融和的な関係の中で、規範を共有しあう。そこから、ずれてもOKだし、ずれることもあるよねって許容する。
人とかモノとか社会規範などのつながる・ほどける対象同士の「隙間」をよくみてみる。
違いは何か?同じ点は何か?どういうすればつながるのか?どういう視点を持つべきなのか?などなど。
身体内(自分の身体・心)でも身体外(他人・モノ・社会規範)との関係においてもその隙間をしっかり見つめることが大事なのだと思います。
そこから生きることが始まるのですから。
 

まとめ

最近は、ダイバーシティ、インクルーシブというように、社会という概念そのものを拡張させるようなキーワードをよく耳にするようになりました。
介護ロボットなどテクノロジーの発達が身体外協応構造をつながりやすくしたり、そもそも身体外協応構造をつなぎづらい人がいることを理解しようよ、っていう動きなども出てきていますし、それ自体はとてもいい傾向だと思います。
 
ただ、注意すべきこともあります。
一つは、つながり、ほどける関係は一方的なものではなく、あくまで当事者を抜きにして語られるべきものではないということ。
例えば、
・介護ロボットの必要性も介護する側の視点だけではなく、される側の視点も必要になる。
・何か間違った行動をしてしまった子どもに対して、一方的にルールを押し付けるのではなく、その子ども自身への理解が必要になる。
つまり、そこには「ほどきつつ拾い合う関係」が大事になるということ。それを怠ると、一方的に規範を押し付けるようになってしまう。特に、今の社会はマジョリティを前提に社会が構成されているので。
 
もう一つは、ほどけることもまた生きることの一部だという自覚も同時に持つべきではないかということ。
テクノロジーの発達などで社会が便利になることは、身体外協応構造がつながりやすくなるということなので、とても都合の良いことではあります。
しかし、ほどける自覚・意識は希薄になってしまうかもしれません。
人間は自然の生き物で、必ず死んでいくことを前提に考えると、ほどけることを意識して、目指していたつながりをあきらめる場面が出てくるかもしれない。
インターネットの普及により「つながる」というキーワードで、日本だけでなく世界全体が、大人だけでなく子どもたちも、国籍とか性別とか立場や身分に関係なく、全ての人が、あらゆるものがつながりやすくなっていることは素晴らしいこと。
しかしながら、ほどけることもまた生きることであり、だから、つながることにとても価値がある、ということを意識していないとほどけることに対する誤解が生じる。
つながることだけがフォーカスされるのは危険だと思う。
(光だけでなく影にも注目する、というか、影があるから光がより価値があるんだよね、というか)
 
こうした、つながりとほどけの繰り返しの中で、関係が細分化され、深まる。
その過程で、痛み・悲しみ・楽しさなどの感情が入り混じり、官能を感じる。
それは、生きる実感なんだ、ということ。
 
熊谷さんご自身の体験から書かれた、生きることにおける官能(感覚なもの)をここまで丁寧に言語化されていることが本当にすごいと思いました。
本を読み進める中でも、自分の感覚的な部分を自分なりに咀嚼して言語化したり、言語化されたものを感覚に戻してみたり、ということを繰り返していました。
(そうしないと、読めないと思います)
 
そうした感覚と意識の部分を注意深く観察することで、私自身、勇気をもらえて、本当にありがたかったです。
 
また、数年後に読んでみると、ちょっと違う感覚を持って、本を読めるかもしれません。
もし、よろしければぜひ読んでみてくださいませ。
 
ありがとうございました😊
 
 
 

どうでもいいこと エレベーターにて

職場のビルにて
オフィスのある7階から会議室のある地下1階に降りるため、エレベーターの前で待っていた。
 
エレベーターが止まると、中には一人のスーツ姿の若い男性。
私は、普通にエレベーターに乗り、地下1階のボタンを押す。
1階のボタンも点灯していた。どうやらその男性は1階で降りるらしい。
 
 
そして、エレベーターは1階に到着。
私はその男性が降りるなと思った。
すると、その男性が開いたエレベーターのドアを手で押さえながら、
 
「どうぞ!!!」
 
と降りるのを先に譲ってくる。
しかも、笑顔で。
 
「んっ??」
 
もう一度みると、地下1階と1階のボタンだけが点灯している。
そして、エレベーターには、確かに私とその男性以外に誰もいない。
 
「どういうこと???」
 
しかも、その男性は素敵な笑顔!!
すごい自信満々!!!
ドヤ顔!!!!
 
私は、戸惑いながらもごくごく普通に
 
「地下1階で降りますから大丈夫です。」
 
彼は、それに対して、
 
「そうですか。では!!」
 
と、本日最高の爽やかな笑顔で去る。
 
 
 
どういうことか?
 
彼は、私が地下1階で降りることに気づかなかったのか?
それなら、去る時の最高の笑顔に疑問が残る。。。
(勘違いしちゃった、という表情が微塵もなかった。。。)
 
実は私以外の何か(幽霊的な)ものに話しかけていたのか?
それなら、ホラーで怖い。。。疲れてるな。俺。
 
彼が私に対して何かを試していたのか?
そんな状況で人はどんな表情をするのか?などという人間観察???
それなら、私を対象にしてほしくない。。。
 
彼は日常的にはエレベーターで他人に先に出ることを譲る習慣を持っている人なのか?
それなら、誰かしらそれを指摘するだろう。。。
そんなことをする必要がない時はやらなくていいよ、と。。。
 
 
いずれにしても、私の中で納得いく答えが見つからない・・・
 
仕事で疲れた、ごちゃごちゃしていた頭の中でそんなことを考えていた。。。
あの笑顔が頭の中から離れない・・・
 
仕事の頭の中に、すーっと入ってきたどうでもいいこと。。。
でも、気になる。。。
 
どうでもいいことだけど、ちょっとそんなこと考える時間が心を軽くしてくれた。
でも、幽霊だったら怖いなあ
 
 

メンタルリソース???豊かに生きるための個人リソースを考える

最近、働いている会社で、精神的に辛くて会社を休む人、辞める人がちょっといて(ブラック企業ではないですが。。。)、その仕事が割と自分にも回ってきて、あまり休めていないこともあり、心身ともに疲れを感じていました。
そんな中、最近、ラジオを聞いているとき、「メンタルリソース」という言葉を聞きました。
その時は何気なくその言葉を受け止めていたけど、今まで使ったことがない言葉だったこともあり、おもしろいなあと感じたので、考察も含めて、綴りたいと思います。
 
通常、「リソース」という言葉は、「ヒト」、「モノ」、「カネ」、「情報」、「時間」などを指し、これらの限られたリソース(資源)を組織がどう効率的に活用して事業を成功させるか、という意味で、ビジネスにおいてよく使われます。
 
一方、組織だけでなく、個人で考えた場合も同じことが言えます。
自分の持ってるリソースがなんなのか?どう活用すべきか?などなど、人生を豊かにするためには個人のリソースをどう捉え、考えるかが非常に重要です。
 
それでは、まず、個人でいうリソースとはなんでしょうか?
先述の組織のリソースを個人に置き換えて考えてみました。
ざっとこんな感じでしょうか?
「ヒト」・・・組織に属していれば部下、同僚。人脈。家族・友人など
「モノ」・・・文字通り、所有しているもの(スマホ、パソコン、時計、家など)
「カネ」・・・フロー収入、貯金、株・債券などなど
「情報」・・・知識・経験、スマホ・人脈などの情報へのアクセス手段そのもの
「時間」・・・与えられている1日24時間。でも、それがいつ潰えるかわからない。。。
 
それでは、「メンタルリソース」ってなんでしょうか?
そもそも「リソースとは活用することで価値を生み出すもの」らしいです。
メンタルを活用して価値が生み出されるってどういうことか???
 
私の場合、一般的にいうとメンタルが非常に弱い部類に入ると思います。
(そもそもメンタルって強い・弱いという尺度だけではかれるものでもないと思ってますが。)
人の言動とかすごく気になるし、人がどう考えているか?とかなんとなく察してしまう。
その人の声のトーン、身なり・雰囲気などはもちろん、その人の姿を直接見なくてもドアを開ける音とかでもなんとなくその人の気持ちの状態を察してしまいます。
 
そんな私にとって「メンタルリソース」をどう捉えればいいのか?
自分なりに考えた結果は以下の通りです。
 
まず、”「ヒト」、「モノ」、「カネ」、「情報」、「時間」のような資源よりも上位概念にあたる”ということ
 
つまり、「メンタルリソース」が乏しい状況で、「ヒト」、「モノ」、「カネ」、「情報」、「時間」などのリソースを活用する状態にはなり得ない。
 
「メンタルリソース」が削られているもしくは質の悪い状態だと「ヒト」と共同するのは難しい(そのメンタルが他の人に派生するから)し、「ヒト」、「モノ」、「カネ」、「情報」、「時間」のリソースを適正に把握・配分する判断そのものが難しくなってしまうからです。
 
だから、自分の「メンタルリソース」の状況をよく観察する必要があります。
「ちょっと後ろ向きに気持ちになりがち」、「今日はちょっとあまり人と話したくないな」など、自分のメンタルの状況をみて、素直に受け取ることがまず大事。
特に私のような「メンタル」の性質だと、そのケアというのは、自分にとってはもちろん、結果的には他人に対しても非常に重要です。
 
さらに大事なのが、「メンタルリソース」よりもさらに上位概念に「フィジカルリソース」(*)がある”ということ。
(*)世の中にこんな言葉ないかもしれません。ここでいうフィジカルとは「物質的」という意味ではなく「身体的」という意味。
 
めちゃくちゃ当たり前なんですけど、
「お腹が空いてたら、イライラする」、「寝不足だから集中できない」などないでしょうか?(アラフォーになって疲れやすく、イライラするなどよくあります。。。)
 
メンタル(精神)とフィジカル(身体)の関係って、いろんなことが語られているけど(これはまたの機会に)、間違いなく、フィジカルが先にきますよね。
フィジカルがないのに、メンタルだけがある状況(幽体離脱のような状態???)ってないので。。。
 
だから、個人のリソースを考える場合、
最上位層に「フィジカルリソース」があって、
その次の層に「メンタルリソース」があって、
これらのリソースをベースにしてはじめて、『人生を豊かにする』ために「ヒト」、「モノ」、「カネ」、「情報」、「時間」などのリソースを活用できる状態になると思います。
 
すごく当たり前だけど、こういう意識を実践できていなかったです。
 
若い頃は、「フィジカルリソース」を意識しなくても、何とか勢いでやってこれた気がしますが、最近は、睡眠時間を十分にとる、身体を動かすためにストレッチする、筋トレするなどということを最優先に生活しています。
そうすると、「メンタルリソース」の量も質も保持しやすくなり、結果、『人生を豊かにする』ための「ヒト」、「モノ」、「カネ」、「情報」、「時間」などのリソースの把握・配分もしやすくなります。
 
こう考えると、無駄に残業しようとは思わなくなりました。
 
残業せず、定時に帰るとき、なんとなく気まずい感じがします。
そもそも勤務時間8時間をフルで頭を使って仕事していれば、残業したところで生産性は確実に落ちるし、残業するだけ家に帰る時間も遅れ、食生活が乱れ、睡眠時間も減り、悪影響が出てきます(つまり、最上位層である「フィジカルリソース」に悪影響が出てきます)。
それであれば、残業せずに定時に帰るときの気まずい感じに対して、少し「メンタルリソース」を消費してサクッと家に帰り、ゆっくりご飯を食べる・ゆっくり寝るなどの「フィジカルリソース」の回復、家族との食事、趣味などの時間にあてるなどの「メンタルリソース」の改善に充てる方が、建設的です。
結果、仕事のパフォーマンスも向上するので、会社に文句を言われる筋合いはありません。
 
フィジカルリソース」、「メンタルリソース」の取り扱いの難しさは、常に変化することだと思います。
歳を取る、病気になる(しかも突然の場合も)などにより「フィジカルリソース」が低下します。
自分だけでなく、周囲の環境(特に最近はSNSなどもあり目まぐるしい。。。)が、当然、自分の「メンタルリソース」の質・量はもちろん、その消費のさせ方さえにも影響を与えます。
さらに、人間の意識って現実と乖離していることが多々あるから、余計にリソースの質・量を正確に把握することを困難にさせます(例えば、頭では自分は元気だと思っていても、実際身体は疲弊しきっている、みたいなことは非常に多くありますよね。)
 
だからこそ、「フィジカルリソース」を大事にして「メンタルリソース」そのもの、「フィジカルリソース」との関連性に注視する。それらが、質・量ともにまずい状態であれば、早めにケアすることが最も重要!!です。
 
ちなみに、最近、私は、なかやまきんに君が大好きで、YouTube見ながら、楽しく身体動かしています。身体も心もすごく健やかになります。
 
「フィジカルリソース」、「メンタルリソース」を大事に『人生を豊かに』していきたいですね。
 
ありがとうございました🙂