あよめゆそ日記

日常を深く考察して、価値ある豊かなものに・・・

熊谷晋一郎さん「リハビリの夜」から、生きること、社会のことを考えてみた・・・

以前に、熊谷晋一郎さんの書かれた記事をみて、『自立』とは何か?ということをブログに書きました。
 
その後、熊谷晋一郎さんのことが気になり、著書「リハビリの夜」を読んでみたので、今回は感じたことを書いてみようと思います。
 
驚愕しました。
感覚的なことをここまで丁寧に言語化できるなんて、本当にすごい!!
ご自身の経験から、生きることとか発達とはどういうことで、その過程において生まれる官能を見事に表現している。
熊谷自身の体験を、読者自身で体感できてしまう本だと思います。
 
正直、それに対してうまくブログに書くことは難しい、という気もしましたが、個人的に感じた事を言語化しておきたいという気持ちがまさったので、綴りたいと思います。
 
まず、私がこの本を読んで、大事だな、って感じたこと

①「生きること」とは「自分」と「自分以外の世界」との関係をつなげたり、ほどけたり、という繰り返しである。

②「自分」と「自分以外の世界」との関係が、つながるだけでなく、ほどけることも、生きることの大事な一部分である。
③「自分」と「自分以外の世界」との関係がほどけている状態は悪いことではない(未発達とか不適合とかではない)。
④生きるためには、「自分」はもちろん「自分以外の世界」との融和的な関係が必要であること
 
これだけ読んでも、全然、意味わかりませんね。。。
 
頑張って、説明していきたいと思います。
本よりだいぶ稚拙で平易な表現になりますが、ご容赦くださいませ。。。
 

「自分」と「自分以外の世界」との関係

まず、
「生きること」とは「自分」と「自分以外の世界」との関係をつなげたり、ほどけたり、という繰り返しである(上記①)。
 
平たくいうと、
自分の身体の中の意識とか筋肉とか神経とかそれらの要素の関係性がつながったり、ほどけたり。また、自分以外の周囲(他人、モノ、社会、会社などの組織など)との関係性がつながったり、ほどけたり、その繰り返す工程そのものが生きること、なのだということ
 
なんかわかるようなわからないような。。。
 
本では、
協応構造がほどけたり、つながったりすることの反復が生きることの現実ではないか。
 
と表現しています。
 
これを理解するには、「協応構造」とは何か?を知る必要があります。
 
 

「協応構造」とは何か?

「協応構造」には、「身体内協応構造」、「身体外協応構造」の2つあります。
「身体内協応構造」とは、身体の内部の意識・筋肉などの連携のことです。
例えば、「コップの水を飲む」という行為において、コップを飲もうという意識のもと、それが全身に伝わり、関節・筋肉を使って、コップを食器棚から取り出し、水道の蛇口をひねって、コップに水をいれ、水を飲む、という行為につながります。
呼吸するなどの無意識的な行為もあるでしょう。
つまり、身体の内部の要素が連携して、動きを生んでいる訳です。
この連携している状態を「身体内協応構造がつながる」といい、麻痺があって手でコップを掴む動作を実現できないなどという状態を「身体内協応構造がつながっていない」もしくは「身体内協応構造がほどける」といいます。
しかし、動きは、身体の内部だけで完結するものではありません。
コップを取るためには、コップの形状・材質・重さなども重要になります。
そうでなければ、コップで水を飲むどころか、コップを掴むこともできないからです。
コップだけでなく、家の床の形状とか、食器棚、冷蔵庫など、色々なモノとの関わりが必要になります。
これらの身体の外側との連携も必要で、そのことを「身体外協応構造」と呼びます。
つまり、動きは「身体内協応構造」、「身体外協応構造」がうまく連携することで初めて意味のあるものになります。
協応構造とは、このような考え方のことです。
 
また、協応構造を考える上で「社会的規範」という要素が重要になります。
例えば、「トイレで排泄をする」というのは、社会的規範の一つです。
「トイレで排泄をする」という規範とつながるには、身体的は動きはもちろん、トイレもそれに連動して使いやすい場所(設備・広さなど)であることが必要になります。
この規範を前提にして、動作を実現するために、身体内外の協応構造をうまくつないでいく必要があるのです。
うまくいかないと、社会的規範から離脱してしまうという身体外協応構造がほどけてしまった状態になります。
 
そして、協応構造という視点で、人間と人間以外の動植物の違いについても、触れています。
人間は周囲との協応構造が不安定。
人は、生まれてすぐに自分で立ったり、歩いたりできないが、自分と周囲の世界と少しずつ適応させていくことで、協応関係を適合させる。
 
一方、人間以外の動植物は、協応構造が強固である。
例えば、野に咲く花は根を張る場所は選べないし、天候によって動くこともできない。
野生の動物も同じ。危険な動物が周囲にいるかもしれない。
固定された環境の中で生きるしかない。
 
でも、不安定というのは、見方を変えれば自由度が高い、ということであり、人間の強みではないか、と仰っています。
 
なるほど。
確かに、人間のそういう不安定な性質(=自由度の高さ)が人間がここまで進化してきた理由なのかもしれません。
 

「つながる」、「ほどける」の考察

先ほど例に出した、生きることの中の日常行為の一つである排泄について、もう少し深く考えてみます。
 
排泄の大まかな流れは、以下の通りです。
①トイレにいきたい感覚が生まれる
便意を感じながらトイレに行く
③トイレのドアを開ける
④ズボン・下着を脱ぐ
⑤便座に腰をかける
⑥排泄
 
脳性まひである熊谷さんの場合、これらのステップをクリアするのが大変だろうというのは想像するに難くありません。
熊谷さん自身の腸の動きや運動を受け止めてくれるモノや人との特殊な身体外協応構造のつながりが必要になるからです。
トイレに移動するまでの導線の確保、トイレ内に手すりは必須、その設置場所・形状なども大事、車椅子が入れる広さも必要になります。場合によっては介助する人も必要でしょう。
それらをアパートのオーナーや業者と相談したり、友人などの力を借りて実現していく、一つ一つを受け入れ、考え、行動していきます。
これらをクリアしていくために、身体内外の協応構造のつながりを構築していくことそのものが生きることだと仰ってます。
 
そして、大事なのは、失敗して失禁してしまったということもまた生きる現実だと仰っていること。
失禁してしまったということは、上記の排泄の過程のどこかがうまくいかなかったということです。(例えば、②のトイレまでの移動に時間がかかった、③でトイレのドアを開けることに手間取った等)
失禁した結果、便意(身体内協応構造のほどけのサイン)はなくなります。
それは腸の状態が正常に戻ったことを意味します(=身体内協応構造のつながり)。
一方、失禁は「けがれた身体」になってしまった、という社会的規範から脱線してしまったという敗北感、疎外感も感じさせる(=身体外協応構造のほどけ)。
同時に、脱力した身体は地面にしっかり支えられ、そこに照らされる太陽の光の温かさを感じられる(=新しい身体外協応構造のつながり)。
さらに、失禁によって失った人・モノ・社会的規範からの離脱を、介護してくれる人との関係性の中で身体をきれいにしてもらうことで新しい関係が生まれる(=新しい身体外協応構造のつながり)
 
つまり、ほどけることで、新しいつながりが生まれる。
それが、生きることなのだ、と。
 
そう考えると、少し心が軽くなりませんか?
私は普通に働いて、家族と暮らしてますけど、会社からの求められることができなかったり、親としてやるべきみたいなことができなかったり(社会的規範からの脱線)、なんとなく、そういうことが重なると自分の存在意義みたいなところを疑ってしまったり、ネガティブな思考に陥ってしまいがち。
でも、うまくいかないこと(身体外協応構造がほどけること)が次にうまくいく(再び身体外協応構造がつながること)ために必要なことで、それが生きることである、ということ。
「うまくいかない状態が生きる現実の一部である」と受け入れられると、本当に楽になると思います(上記②)。
当然のようだけど、そう受け止めることって意外と難しい。
個人的には教育が大きく影響していると思うけど、うまくいかない状態を否定的に捉えることが当然のようにあると思う。
もしくは、そう思い込んでいる人たちが多いように思う。
 
ここで一つ注意したいのは、うまくいかない状態(=協応構造がうまくつながっていない状態)は、未発達とか不適合ではない、 NGではない、ということ(上記③)。
例えば、人間が年老いておいていくと、当然、身体機能は低下します
具体例を挙げると、加齢により足の筋力が落ち、動きが鈍くなります。
そうすると、これまで登れていたアパートの階段が登れなくなることがある。
こういう状況になると、筋力が落ちた足と向き合い、周囲の環境も見直し、考察する(身体内外と向き合う)。
その結果、筋力を上げて階段を登れるようにする、手すりなどの道具を使って上りやすくする(身体外構造と再びつながる)、もしくは、階段がない住まいに引っ越すなどの解決策を得る。
こうして身体内外の関係をつながる。こうした繰り返しが生きることである。
しかし、未発達とか不適合ではない。ダメなことではない。
これを、未発達としてしまうと、「加齢による機能低下=社会不適合」となってしまう。
別の例でいうと、いわゆる障害を持つ方における、いわゆる健常者にとって当たり前の社会に対して、生活しづらい場面は多々ありますが、それは、障害を持つ方が身体外協応構造をつなぎにくい、ということであり、社会不適合ということではない、ということです。
 

「外の世界」との関係性のあり方

そして『人間が生きることは、協応構造がほどけること、つながることの反復である。』であるならば、人間が生きるには、他人を含む周囲との融和な関係が必要になります(上記④)
自分の身体はもちろん、周囲との関係とつながる必要があるが、それは決して自分だけではできません。
当然、そうですよね。コンビニでおにぎり買うことも、コンビニに向かって、選んで、購入する過程において、自分一人では当然成り立ちません。
コンビニまでの道路を舗装してくれる人もいるし、コンビニの店員さんも、おにぎりを作ってくれる人も、原料の米を栽培してくれる人などもいる。
人だけでなく、道路そのものとのつながれなければコンビニまで歩けないし、コンビニの内装・外装、おにぎりのパッケージなどとか様々なモノとのつながることで成り立つ行為になります。
そして、それらとの関係は、決して主従関係ではなく、融和的な関係が必要です。
例えば、障害を持つ方に対して、その障害のことを理解せずに介助することはできません。
それを理解すること、逆に、介助される側にも理解してほしいことがある。
それをお互い共有する、特には実現が難しいこともあるなど許容することも含めた関係が必要になります。
身体内外のつながり、ほどける対象に対してそういう関係を築いていくことが必要になります。(本では「ほどきつつ拾い合う関係」と呼んでいます。)
 
特に、対象が社会的規範(社会のルール、考え方、あり方など)の場合、それをどう捉えるかという視点が大事になります。
個人が勝手に思い込んでしまう社会的規範もある。
また、立場とか状況などにより、お互いに違う規範を持っていることもある。
だから、融和的な関係の中で、規範を共有しあう。そこから、ずれてもOKだし、ずれることもあるよねって許容する。
人とかモノとか社会規範などのつながる・ほどける対象同士の「隙間」をよくみてみる。
違いは何か?同じ点は何か?どういうすればつながるのか?どういう視点を持つべきなのか?などなど。
身体内(自分の身体・心)でも身体外(他人・モノ・社会規範)との関係においてもその隙間をしっかり見つめることが大事なのだと思います。
そこから生きることが始まるのですから。
 

まとめ

最近は、ダイバーシティ、インクルーシブというように、社会という概念そのものを拡張させるようなキーワードをよく耳にするようになりました。
介護ロボットなどテクノロジーの発達が身体外協応構造をつながりやすくしたり、そもそも身体外協応構造をつなぎづらい人がいることを理解しようよ、っていう動きなども出てきていますし、それ自体はとてもいい傾向だと思います。
 
ただ、注意すべきこともあります。
一つは、つながり、ほどける関係は一方的なものではなく、あくまで当事者を抜きにして語られるべきものではないということ。
例えば、
・介護ロボットの必要性も介護する側の視点だけではなく、される側の視点も必要になる。
・何か間違った行動をしてしまった子どもに対して、一方的にルールを押し付けるのではなく、その子ども自身への理解が必要になる。
つまり、そこには「ほどきつつ拾い合う関係」が大事になるということ。それを怠ると、一方的に規範を押し付けるようになってしまう。特に、今の社会はマジョリティを前提に社会が構成されているので。
 
もう一つは、ほどけることもまた生きることの一部だという自覚も同時に持つべきではないかということ。
テクノロジーの発達などで社会が便利になることは、身体外協応構造がつながりやすくなるということなので、とても都合の良いことではあります。
しかし、ほどける自覚・意識は希薄になってしまうかもしれません。
人間は自然の生き物で、必ず死んでいくことを前提に考えると、ほどけることを意識して、目指していたつながりをあきらめる場面が出てくるかもしれない。
インターネットの普及により「つながる」というキーワードで、日本だけでなく世界全体が、大人だけでなく子どもたちも、国籍とか性別とか立場や身分に関係なく、全ての人が、あらゆるものがつながりやすくなっていることは素晴らしいこと。
しかしながら、ほどけることもまた生きることであり、だから、つながることにとても価値がある、ということを意識していないとほどけることに対する誤解が生じる。
つながることだけがフォーカスされるのは危険だと思う。
(光だけでなく影にも注目する、というか、影があるから光がより価値があるんだよね、というか)
 
こうした、つながりとほどけの繰り返しの中で、関係が細分化され、深まる。
その過程で、痛み・悲しみ・楽しさなどの感情が入り混じり、官能を感じる。
それは、生きる実感なんだ、ということ。
 
熊谷さんご自身の体験から書かれた、生きることにおける官能(感覚なもの)をここまで丁寧に言語化されていることが本当にすごいと思いました。
本を読み進める中でも、自分の感覚的な部分を自分なりに咀嚼して言語化したり、言語化されたものを感覚に戻してみたり、ということを繰り返していました。
(そうしないと、読めないと思います)
 
そうした感覚と意識の部分を注意深く観察することで、私自身、勇気をもらえて、本当にありがたかったです。
 
また、数年後に読んでみると、ちょっと違う感覚を持って、本を読めるかもしれません。
もし、よろしければぜひ読んでみてくださいませ。
 
ありがとうございました😊